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2013年3月

2013年3月22日 (金)

新潟下町(しもまち)をあるく~浅草観音堂~(9)

    今回の下町あるきの締めくくりは、赤坂3丁目の「浅草観音堂」です。
  お堂の前に「浅草観音」という額が掲げてありますが、気づかずに通りてしまいそうな小さなお堂です。

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  かってこのお堂は庭に池や木がある大きな寺であったと伝えられています。
その頃の住職の父は新潟奉行所の寺社係をしていたが、戊辰の役で会津方について敗れ、浅草の観音様に入って僧になったということです。
  浅草寺では、明治開港の五港を祈願するため聖観音をつくり、各港町へ分身されることになった。
  新潟へは遅れて明治12年に寺を建てて、大金をつけてもらって開山したということです。
 観音様は、丈1メートルくらいの黒い木像です。
その後この寺には、いろいろなことがあって小さくなってしましました。
  現在は西堀の瑞光寺の末寺となって毎月に18日にお祭りのお経があげられています。

2013年3月21日 (木)

新潟下町(しもまち)をあるく~旧小澤邸住宅~(8)

   本町14番町の突き当たりにある浄信院「入船地蔵尊」から傾らかな坂道を下り、上大川前通りへと歩いて行くと「旧小澤邸住宅」があります。

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    この邸宅は豪商であった小澤家が新潟市に寄贈し、今は市の管理する施設になっています。
   小澤家は明治初期には回船問屋を営み、観徳丸・幸運丸などの回船を所有し、北海道と瀬戸内、大阪との間で商売をしていました。     中央区西厩島の金刀比羅神社には小澤家が奉納した北前船の和船模型が展示されています。

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  その後運送倉庫業、米穀流通、地主経営、運送業など広く事業を展開し財をなしました。
また、新潟三大財閥の一つ斎藤家とは縁戚関係にあります。
   上大川前通りはかっては信濃川の川岸で、そこに面して屋敷を持つことは商家のステイタスでもありました。
  1880年(明治13)の大火の直後に建てられましたが、旧新潟市に残る町屋で最も古いものの

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一つです。

2013年3月20日 (水)

新潟下町(しもまち)をあるく~入船地蔵尊~(8)

   開運稲荷神社の裏手は海岸線になっています。、
   その一歩手前の四ツ屋町住宅街の通りを歩いて行くと、
浄土宗の尼寺、浄信院「入船地蔵尊」があります。

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   この寺は1794(寛政6年)天明の大飢饉による死者を供養するため、関川貞信尼が近隣の信者の協力を得てお堂を建て、
延命地蔵を安置したものだと伝えられています。
   境内の千体地蔵堂には丈7寸5分の1470体の金色地蔵が安置されています。
   また境内には六地蔵と江戸時代の尊皇学者竹内式部の顕彰碑があります。
   この寺の本尊は丈2尺8寸の石像ですが、享保3年、佐州羽黒山覚念の銘があります。
   本尊には次のような逸話があります。
   丹州の楠船が夷港に停泊中、一人の白髪の老僧が現れて、
「新潟へ渡航するのに便船がなくて当惑しているので乗せてほしい」といったが、船中の者に断れていずれともなく立ち去っていった。
   出航していよいよ新潟へ近づいた時に船が急に進まなくなった。
見ると船尾に石地蔵が座っている。船員はこいつとばかり海中へ投げたところ船は全く動かなくなった。
   地蔵の天罰か仏法不知の輩への咎かと心配して海中から地蔵を拾い上げたところ、入風がでて船は無事入港することができた。
  また、この寺はかつての新潟遊郭のあった本町十四番町の突き当りに位置していることから、娼妓が沢山お参りにきていたことでも知られています。
  この辺が遊郭であったころと今を比べて見ました。

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2013年3月19日 (火)

新潟下町(しもまち)をあるく~開運稲荷神社~(7)

  願随寺の裏手にでると砂丘地の地形になり、海岸に向かい緩やかな傾斜地に、栄小学校や住宅地などがびっしり建てられ、その先は海岸の松林になっています。
  そんな住宅地の中の小路を歩いていくと、開運稲荷神社が現れます。

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  この神社は1649年(慶安2)ころ長岡藩が関屋に藩の米倉をつくったときに、鎮護のために稲荷さまを祀ったのがはじまりだと言われています。
  その後米倉は学校町に移り、開運稲荷大明神と改められました。
  明治7年には米倉は撤去されましたので、一時的に古町十一番町の、秋葉神社に移されました。
  今の場所に移築されたのは1878年(明治10)です。
  このお宮は場所柄、漁師や娼妓のお参りが多かったようです。
  参道には左右一対の「こんこん樣」と言われる狐の石像があります。

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  この像は明治の始めころに、出雲国(島根県)の回船が積んできた出雲石を、狐の像にして奉納したと言わてています。両足をなでた手を額にあてるとご利益があるそうです。

2013年3月18日 (月)

新潟下町(しもまち)をあるく~願随寺~(6)

   金刀比羅神社前の狭い小路から横七番町通りの広い通りへ出ると、道を隔て門前奥に願随寺が見えてきます。

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このお寺は真宗大谷派の寺で、新潟県三島郡北村(現長岡市)あったものです。
   1733(享保18年)新潟市砂山に移転を許され、1841(寛保元年)長岡藩主より、願随寺受地として3,980坪与えられました。
1859(安政5年)新潟開港にあたり、外国使節団の接待所となったことで知られています。

   願随寺裏の辺から海岸線の砂丘の縁にあたり次第に登坂になってきます。

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※ ジキット号の来港
安政6年(1858)4月22日、最初に新潟沖現れたのは事前連絡のなかったロシア船であった。
ジキット号という軍艦で、函館の領事館で使用するために派遣されていた船であった。…

オランダ船・イギリス船の来港
ロシア船が来航した翌日の4月22日、オランダ船バーリー号が新潟に現れた。…
遅れて10月9日にはイギリス船が新潟に来た。
…乗っていた7人のうち3人が上陸し、願随寺で会談が開かれた…
                      ~新潟歴史双書~

2013年3月16日 (土)

新潟下町(しもまち)をあるく~金刀比羅神社~(5)

  湊稲荷神社を出て下町(しもまち)の狭い小路へ入って行くと、
迷路に迷い込んだように方向が分からなくなってしまいます。
  そんな思いをしながら歩いていくと、目の前が急に開け、金刀比羅神社が現れます。

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  この神社は1822(安政5年)新潟の回船問屋鈴木弥五左衛門の建立したものです。
  弥五左衛門の持船「白山丸」800石は、大阪からの帰路出雲沖の海で遭難します。
  荒れ狂う大波に船頭の三平以下13人の乗組員は、助かる道はないと諦め帆柱をたたみ、
四国の金毘羅様の護摩札を帆柱にくくりつけ、祈りました。
そうすると帆柱の先端が急に明るくなり白髪の老人が現れ波は静まり助かりました。
この金毘羅様のご利益に感謝し、弥五左衛門はこの神社を奉納したと言われています。
  拝殿正面に1897(明治30年)奉納された「難船絵馬彫刻」の欅板の彫刻が掲げられています。

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  この絵馬は1984(昭和59年)新潟市有形民俗文化財に指定されました。

新潟の下町を歩く~(湊稲荷神社)~(4)

   「みなとぴあ」を後に下(しも)町の小路を5分ほど歩いていると、右側に湊稲荷神社が見えてきます。

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    この神社は1716(享保元年)の創建と伝えられています。
  新潟の湊に来る船はこの神社の森を目当てに進み、上陸して海上安全と舟運長久をこの神社で祈ったと伝えれれています。
  航海の無事を祈願する神社として海運業者や漁業者の信仰を集めましたが、一方で遊郭で働く女性たちからの信仰も厚く、別名道楽稲荷とも呼ばれていました。
  また、神社の鳥居をくぐると左右一対の高麗犬があります。

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  この高麗犬には台座が据えられ、回転する設計になっています。
言い伝えによれば、向かって左は女性・右側は男性、それぞれこの台座を回しながら願掛けすれば願いが叶うと言われ、女性に人気があります。
  船員を接待した女性たちは夜になると、この神社で高麗犬を回しながら、西風が吹いて波が荒れ、船の出港が遅れることに願掛けしたと言われています。
  境内にそのことを詠った盆歌の一節が刻まれた石碑があります。

「しもの新地の 道楽稲荷 おれも二三度 だまされた」
                            八木朋直筆

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2013年3月14日 (木)

新潟の下町を歩く~(「千の風になって」モニュメント)~(3)

○ 千の風になってモニュメント
 みなとぴあ、の河畔の一角に「千の風になって」モニュメント」があります。

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  このモニュメントは、新潟市出身の作家 荒井満が翻訳作詞・作曲した「千の風になって」の歌碑です。
  平成20年10月千の風市民の会が、募金活動をして製作したものです。
  平成24年9月2日完成し、この場所で完成セレモニーが行われました。

作曲者 荒井満さんのメッセージは次の通りです。 

 私のふるさとは、新潟市です。高校を卒業するまでの幼少年時代をすご
しましたので、幼友達がたくさんおります。その中のひとりである川上耕君
の夫人桂子さんが、病に倒れお亡くなりになりました。まだ四十代の若さ
でした。あとに残された耕君と三人の子供たちの悲しみは、尋常ではあり
ません。その悲しみをほんの少しでも和らげてあげたい…。そんな思い
から生まれたのが「千の風になって」という楽曲でした。
  英語の原詩を翻訳作曲し始めて歌唱したのは、十二年前の夏。場所
は北海道、大沼湖畔に広がる森の中です。地元七飯町の人々は、このこ
とを大いに喜び、″千の風になって 名曲誕生の地 大沼国定公園″と
いうモニュメントを作ってくれました。四年前のことです。
  そしてこのたびは、なつかしい信濃川の河畔に、″千の風になって
名曲のふるさと新潟市〟という新しいモニュメントが建立されることにな
りました。このプロジェクトを発案し、様々な困難をのりこえて完成にこぎ
つけたのは、新潟市民の皆さんの情熱と実行力のたまものです。
おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。このモニュメント
が新新潟市民の戸って、”希望とやすらぎの場所”になりますように…。

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新潟の下町を歩く~(みなとぴあ)~(2)

○旧新潟税関庁舎 
   この建物が建てられたのは、1869(明治2)10月で、新潟運上所として開設されました。
   設計者は不明ですが、「請負人は弥七・礼助」「棟梁は円六」とされています。

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   運上所は1873(明治6)税関と改称され、その後1966(昭和41)まで新潟税関支所として使われました。
   開港当時の税関庁舎として現存する、唯一の建築物で、1969(昭和44)重要文化財に、敷地が史跡に指定されました。
  建物の特徴は、日本建築の技術を用い、洋風をまねて表現しようとした、「擬洋風木造建築」の建物です。
  特徴的な意匠は、塔屋、アーチ状の通路、なまこ壁、きんちゃく型ガラス窓、べんがら塗装、青海波模様の棟瓦などが挙げられています。
  この建物ができた当時のこの周辺は一面の谷内で、盛り土をして造られたようです。
その後運上所から上大川前に至る湊町通り(通称「運上所通」)と、運上所から河口へ至る入船町通りを軸に、下島・上島の開発が進んだようです。
  この建物がどうして建築当初のまま残ったのか、調べてみますと、当時の新潟湊の輸出入は、非常に少なくこの建物で十分対応できていて、増改築の必要性がなかったからという説もあります。
○ 石倉
  石倉は税関庁舎、土蔵と同じ1869(明治2)に建築されました。
最初は保税倉庫として使用されていまいたが、現在は、民具などを収めた資料庫として使用されているようです。

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  この建物が建設されたころは、輸出入品を通関手続きのため一時的に保管していたようです。

2013年3月13日 (水)

新潟の下町を歩く~(みなとぴあ)~(1)

  10日(土)の午後新潟の下町を歩いてきました。
 下町には江戸から昭和にかけ湊町として栄えたころの、貴重な遺産が残されています。
  信濃川左岸にある「みなとぴあ」の駐車場に車を停め、ここから出発です。

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  「みなとぴあ」は開港5港のひとつに選ばれた、みなとまち新潟の歴史と文化に触れることができる博物館です。
 重要文化財の「旧税関庁舎」や昭和初期の建造物である「旧第四銀行住吉町支店」が立ち並び、湊町として栄えたころにタイムスリップするような体験でした。
 ここは平成16年、旧税関庁舎と石倉、旧信濃川の岸部にあった荷上場など、国の史跡に指定されているところに、新たに新潟市歴史博物館・第四銀行住吉町支店が併設されたものです。
○ 新潟市歴史博物館

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  現在のNEXT21がある場所、柾谷小路と西堀が交差する角地に建てられていた二代目新潟市庁舎のイメージを取り入れられ、1.6倍に拡大して建設されました。
1910(明治43)に建てられ1933(昭和8)火災で焼失するまで使用されていました。
 常設展示では水とのかかわりをテーマに、企画展示では収蔵資料や様々な切り口で新潟の歴史が紹介されています。
○ 旧第四銀行住吉町支店

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  この建物は市内住吉町にあったものですが、柳都大橋から通じる万代島ルート線上に建物が位置するため、新潟市では、建物を保存し、活用するため、今の場所に移築されたものです。

2013年3月11日 (月)

新潟の坂道を歩く~日和山展望台~(13)

   日和山から下り、海岸線へ出ようとすると、また急な砂丘の坂を登らなければなりません。
その坂を登り詰めると、そこには日和山展望台があり、日本海の大海原が広がっています。

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  この展望台は、1977年(昭和52年)に完成した2代目で、高さは9メートルです。
 日和山展望台は船乗りや水先案内人が、天候や風向きの様子見をする場所でした。
1881年(明治14)ここにも船見やぐらや茶屋が作られ、新日和山といわれました。
晴れた日には佐渡が間近に迫ります。
  尾崎紅葉や北原白秋など多くの文人が訪れ、新潟随一の風景や潮風を楽しみました。
当時は砂浜は広く、300メートルほど先が波打ち際でした。
 その後海岸浸食により、1936年(昭和11)少し後退した現在地に日和山展望台が建てられました。
高さは7,2メートルの鉄筋コンクリート製でらせん階段でしたが、
海岸浸食により今の展望台が新たに建てられました。

2013年3月10日 (日)

新潟の坂道を歩く~日和山~(12)

   この辺からは、人家の軒下を通るような狭い路地を地域の人々に気を使いながら歩きます。

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しばらく歩いて行くと一際高い「日和山」の階段が見えてきました。

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ここは標高12.3メートルで、新潟島で一番高い場所だということです。
 山の頂上には海上安全祈願のための「日和山住吉神社」があります。この神社は3年ほど前造り変えられたものです。

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水場や方角石があったり、山頂から一段低い場所には、「海難者招魂の碑」などもあり、この地が新潟湊との関わりの深かったこと

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が伺われます。
上の絵は(1831年)天保二年に描かれた日和山の様子です。
この山も砂丘の一つです。
今では地形も変わり全く想像もできませんが、かつてはここから港周辺を見渡すことができたようです。
日和山のふもとには廻船問屋の手代たちが詰めており、湊に近づいた船の船主や国名・積荷を確認し、入港が決まった船は、水先案内をする水戸教が停泊地まで誘導しました。
  日和山は元々水戸教の仕事をしていた伊藤家の持ち山でした。
そして神社を伊藤仁太郎が自宅に奉納していましたが、1865年(慶応元)この場所に遷座したものです。1

※水戸教~水先案内のこと

2013年3月 9日 (土)

新潟の坂道を歩く~二葉町の坂~(11)

   砂丘を切り通した地獄極楽小路を海岸方面へと下って歩きます。
さらに海岸線に向おうすると緩やかな上り坂になります。

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坂の上に近づくと海の香りが漂ってきます。
視界が開け、市立二葉中学校のグラウンドとその先に西海岸公園の松林が続いて見えます。
ここで引き返し坂を少し下ったところから、左手の狭い小路へと入っていきます。
少し歩き、住宅の切れ間の空き地からは、眼下に街並みの景色が広がって見えます。

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この高台の小路を歩いていくと下坂の急な階段が見えてきました。
階段下までだどりつき振り返ると、
砂丘地の急傾斜地を活用した住宅の裏側が見え、高低差のほどがよくわかります。

2013年3月 8日 (金)

新潟の坂道を歩く~地獄極楽小路~(10)

    行形亭(いきなりや)の外塀の脇の狭い小路は「地獄極楽小路」と呼ばれています。

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   道路を隔て、今は西大畑公園となって市民の憩いの場所になっています。
ところが、かつては新潟刑務所でした。
   小路に沿って刑務所の高いレンガ塀が巡らされていたことから、その名がつけられ、刑務所が移転した今でもそう呼ばれています。
   刑務所のレンガ塀は現在もその一部はレプリカとしてが残されています。

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またこの小路を地形で見ますと、砂丘地を切り通して作られているのがよくわかります。

新潟の坂道歩き~行形亭~(9)

   旧斎藤家別邸に隣接して新潟の老舗料亭「行形亭」(いきなりや)があります。創業約300年以上の歴史を誇っています。
かつて、この辺は海岸線が近くまできており、はじめのころは浜茶屋だっとということです。
その後料亭になり現在に至っています。

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  行形亭のトレードマークは鶴と松ですが、庭に丹頂鶴を飼っていたことと、庭木に松が多くあったことからだということです。
  敷地内には砂丘地の地形を生かし独立した建物の客間が随所にバランスよく配置され、各部屋とも歴史と伝統が感じられます。
  建造物のうち主屋、三番の間、寿の間・二番の間、九番の間、湯殿、離れ座敷、など10件が国の登録有形文化財に登録されています。
また敷地の高い塀の脇を通る小路を隔てて、かつては新潟刑務所があったことから、この小路を「地獄極楽小路」と呼ばれ、
  昭和46年刑務所が郊外に移転しましが、今でもそのまま呼ばれています。


新潟の坂道を歩く~白壁通りと旧斎藤家別邸~(8)

 新潟大神宮の参道を下り西大畑の砂丘切り通し道路との交差点を過ぎると、そこは通称「白壁通り」と言われている通りになっています。

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この通りには旧斎藤家別邸・老舗料亭「行形亭」(いきなりや)が軒を並べています。
旧斎藤家別邸には、砂丘の地形を巧みに取り込んだ庭園があります。
かって斎藤家の本宅は東堀にあり、明治から昭和初期にかけ新潟の三階財閥のひとつに数えられる名家です。
主な事業は海運業・銀行業・化学工業など多岐にわたっていました。
この別邸は、大正7年四代当主、斎藤喜十郎が客の接待や避暑のために建設したものです。
庭園はこれより先の大正6年~9年の4年間もかかって造営されたようです。

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かってこの地区は、広大な砂丘地で町に飛砂の害をもたらしていました。
そのため海岸線にクロマツを植えて飛砂防止の備えをしていました。
この別邸や新潟大神宮のあった場所は「四番御林」と呼ばれ「御林稲荷神社」があるのものうなずけます。
この別邸が建設される前のこの地には、明治10年ころには「堀田楼」という料亭があり、
その後、料亭「島清館」「嶋村医院」と持ち主が変わったようです。
斎藤家も昭和18年頃から戦時統制により、銀行もライバルの第四銀行に合併され大きく後退を余儀なくされました。
その後は連合国軍に接収され、司令官の公邸になったりしました。
昭和28年、新潟の建設会社加賀田組に買い取られ、平成17年までの約50年間加賀組社長の自宅となっていました。
その後この邸宅が加賀田組の所有から離れると、市民の間には存続を危ぶむ声が持ちあがりました。
そして平成21年、新潟市がこの邸宅の歴史的・文化的価値などからこれを買取り公有化されました。

2013年3月 7日 (木)

新潟の坂道を歩く~新潟大神宮の坂~(7)

  御林稲荷神社に隣り合わせには、新潟大神宮のなだらかな坂道参道があります。

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  参道入口に大鳥居があり、昨年の冬この坂で、スキー遊びをしていた親子(母子)に出会ったことを思い出します。
  縁に囲まれた静かなたたずまいの大神宮ですが、明治13年の新潟大火で建物が焼けました。
  明治17年に現在の社殿が再建されたということです。
  新潟での皇道布教はここを拠点にが進められました。

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  またこの坂の途中にある二番目の鳥居の足元には、「坂口安吾生誕地碑」があります。
  碑文は、1946年に発表された、幼少期を回想した自伝的小説「石の思い」の一節だそうです。

     「私のふるさとは
     空と、海と、砂と、松林だった。
     そして吹く風であり、風の音であった。」

が読み取れます。
 

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新潟大神宮横手の道路は砂丘を切り通したもので、道路から神社へは階段で昇降します。

  

2013年3月 6日 (水)

新潟の坂道を歩く(6)

   「風の館」を後に道の反対側に渡ると狭く急な下り坂道があります。

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その道をてくてく降りて行くと砂丘の下の縁で平坦になります。
砂丘の縁に沿った狭い道を歩いて行くと左手に、「御林稲荷神社」の赤い鳥居が見えてきます。
鳥居は階段になって上へ上へと続いています。

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砂丘だった丘には神社がいくつもあって、御林稲荷社そのひとつのです。
砂防林の松を植栽するにあたって建てられたのがこの神社だと言われています。
この神社のいわれははっきりしませんが、嘉永四年(1851)に浜浦を開墾するにあたり、
小田平右衛門という人っが創建したともいわれれいます。

新潟の坂道を歩く(5)

   砂丘館から下ると坂道は右に急カーブしながら下りますが、曲がらずにそのまま下るやや狭い道がそのまま続きます。
   しばらく歩くと左手に「風の館」があります。
古びた和風の平屋ですが、大正11年建設されは市長公舎として使われてきました。

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   戦後市長は選挙で選ばれるようになり、地元の方が市長になると利用することがなくなり、来賓の接客のばとして利用されてきたようです。
   平成17年新潟出身の作家坂口安吾の遺品・所蔵品などが坂口家から寄贈されたことから、この旧市長公舎を活用して、それらの品々を「風の館」として展示公開されることになったのです。

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  広い庭には昨年開催された「水と土の芸術祭」の参加作品「レクエム」が展示されていました。

2013年3月 5日 (火)

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2013年3月 4日 (月)

新潟の坂を歩く(4)

どっぺり坂の階段降り口の向かいの下り道路沿いには、「砂丘館」(旧日銀支店長役宅)があります。

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  「砂丘館」は、新潟市が所有しており建物の愛称です。
  この役宅は元々西堀通り6番町にあったものですが、柾谷小路の拡幅にかかり現在地に移転したものです。
  戦前の日本銀行の役宅として今でも残っているのは、福島と新潟の2つだけだそうです。
  和風建物・庭ともに見応えのする立派なものです。
  現在は管理を民間の会社に委託し運営されています。
  日本銀行新潟支店は大正3年(1914)の開設され、役宅には8代から37代までの30人の支店長が居住したとのことです。
  平成11年保有資産見直しを図った日本銀行が役宅を売却することとなり、新潟市が取得しすることとなったものです。

新潟の坂道歩き(3)

新潟大学医学部のレンガ造りの赤門から戻り、高台へりの道を歩いていくと、
通称「あさひまち展示館」という鉄筋コンクリート造の建物があります。

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この建物はかってこの場所に旧新潟師範学校があり、その創立50周年記念として建設されたものです。
 外壁はスクラッチタイル張り、正面と両側面は柱型を現し,窓は縦長とする建物で、国登録文化財になっています。
 館内には、新潟大学の各学部が収集した岩石、人骨、機械、実験器具といった資料などが画展されています。
 あさひまち展示館をあとに、しばらく歩いきます。
 道路は大きく右のカーブしながら下り坂になります。
その道路とは別に「ドッペリ坂」という階段があります。
地域の方々がこの階段を歩いている姿が見受けられます。

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かって坂の上には、旧制新潟高等学校の学生寮があり、古町・西堀の繁華街へ出る時はこの階段を歩いて下りました。
「ドッペリ」は留年するという意味のドイツ語で「ドッペルン」に由来するそうで、段数も及第点に1点足りない59です。
「この坂を使って勉強もせずに街に出歩いていると留年しますよ」という戒めらしいのです。

新潟の坂道を歩く(2)

新津記念館から高台の狭い道の西側一帯は、新潟大学医学部・歯学部及び大学病院の建物や関係施設になっています。
坂の上にはかつて招魂社があったらしいのですが、今はその石段だけが残っています。
招魂社というのは戊辰戦争で戦死した官軍兵士を祀る施設だったようです。

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昭和60年には、このあたり一帯から、正軍の戦死者のものと思われる大量の遺骨が発見されたようです。
この遺骨はその後護国神社内にある、戊辰戦争殉難者墓苑に埋葬され、東軍の戦死者とともに埋葬されました。

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そのすぐ脇にはこの高台に上るための石段をがあり、「しょうこん坂」と呼ばれています。

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しばらく歩いて行くと医学部のレンガ造りの赤門が見えてきます。
この門は大正7年に建設され国登録文化財に指定されています。

2013年3月 3日 (日)

新潟の坂道を歩く(1)

新潟の街から海岸へでようとすると、砂丘の坂を登らなければなりません。
新潟の町は阿賀野川や信濃川が運んだ土砂が堆積してできました。
そして今でも海岸線に沿うように砂丘が残っています。
この砂丘のへりに沿って坂道があり、物語も生まれました。
そんな素敵な坂道を体験したくて歩いてみました。

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白山神社の赤い大鳥居を出発し、新潟市役所前を横切って歩いていくと、
新潟大学大学病院の坂があります。

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左手に病院を見ながらこのゆるい坂を登って行くと新津記念館の立派な洋館が見えてきます。

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新津記念館は、新潟県三島郡出雲崎町(現長岡市)出身の石油王・
新津恒吉が外国人迎賓館として

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昭和13年に建てた西洋館です。
1階には「イギリスの間」、
2階には「フランスの間」と「日本間」、
3階には「ドイツの間(非公開)」があり、表情の異なる内装が施されています。

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庭のサルスベリのは、歴史が感じられる立派な古木です。
新津恒吉は、私財を投じて新潟空港の拡張や新潟市公会堂(現在の音楽文化会館のある場所う)を建設寄付したり、
多くの社会貢献をしたことでも知られています。

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この建物が建てられたころの付近一帯は高い建物も少なく、
この高台から自分が寄贈した新潟市公会堂もはっきりと眺められたことでしょう。

新潟下町を歩きました(4)

願随寺横手の狭い通路を通り抜け、通りへ出ると新潟市立栄小学校が見えてきます。
この辺はもう日本海の海辺に近く、何となく潮風を感じます。
校舎を右手に見ながら歩いていくと、開運稲荷神社」があります。

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この神社は江戸時代、長岡藩が関屋に米蔵鎮護のために建立したものです。
その後、明治10年(1877)この場所に鎮座(移転)してきたものです。

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境内の左右に石造りの一対の狐がありますが、
願いをかなえる「こんこん樣」と言われ親しまれています。
この石像は北前船の船底に船の安定のため、積まれていた出雲石だそうです。
荷物を積み替えた後、狐像を刻んで奉納されたということです。
商売繁盛、諸願成就を願う漁業、海運業、倉庫業者のお参りが多かったようです。

新潟下町を歩きました(3)

金刀比羅(ことひら)神社の狭い小路を抜けると、門前通路の奥に大きな寺が見えてきます。
浄土真宗仏光寺派の「願随寺」です。

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新潟が長岡藩の支配下にあった享保元年(1733)、三島郡北村(現長岡市)から移ってきました。
当時の敷地面積は4000坪のの広さだったようです。
このお寺は安政6年(1859)、新潟開港にあたり外国使節の接待所になったことで知られています。

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2013年3月 1日 (金)

新潟の下町をあるきました(2)

  湊稲荷神社を後に下町の入り組んだ小路へ入り込んでいくと、
自分の位置がわからなってしまいます。
そんな中、目の前が開け金刀比羅神社が目の前に現れます。

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この神社は文政5年(1822)新潟町の回船問屋鈴木弥五左衛門が、
持船「白山丸」の遭難を救ってくれた讃岐の金刀比羅神社の神霊に感謝し、建立したと言われています。

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拝殿に掛けられた難船絵馬彫刻は、救われた様子を克明に彫り込んであり、
新潟市の有形民俗文化財第2号に指定されているようです。

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